Pocket

こんにちは 荒蒔です。

今日から、仕事初めという方も多いのではないでしょうか?

本日は、『京都シリーズ第三弾 魔界都市・京都について』です。

今までの京都のイメージは、「雅(みやび)」で、情緒あふれる、

しっとりした味わいがあり、お祭り等が行われていると、

心が沸き立って、楽しい世界でした。

今回のテーマ、「魔界都市・京都」「魔境・京都」「怨霊の都市・京都」等が

使われだしたのは、いつ頃、誰が言い始めたのかというと、

私は、小松和彦先生だと思います。

小松氏は、日本の文化

人類学者・民俗学者・口承文芸論・妖怪論・民間信仰等であり、

現在は、国際文化センターで所長をしております。

1985年当時大阪大学助教授の小松和彦氏と、

当時、写真家の内藤正敏氏の共著『鬼がつくった国・日本』

(歴史を動かしてきた「闇」の力とは)の中で、

「魔境・京都」と、「魔境空間・京都」の言葉が使われました。

内藤正敏様は、豊臣秀吉の秘儀を暴いて有名です。

秀吉の墓所は、京都の阿弥陀峰にあり、

墓所は西向き、その西麓には豊国神社が営まれました。

秀吉自身の遺言である、真西の方角には、

西方浄土の教主である阿弥陀如来を本尊とする西本願寺があります。

この寺は秀吉が建てました。

阿弥陀峰と西本願寺を結ぶ《阿弥陀ライン》は、秀吉の死後の祭祀の秘儀でもあります。

しかし、徳川家康は、関ヶ原の戦の後、豊国神社の参道を塞ぐ形で、新日吉神社を移転し、

さらに、西側には、かつて秀吉が滅ぼした紀州根来の智積院を、

そして、本願寺の東側には、秀吉によって法主の座を追われた、

教如を取り立てて東本願寺を建てさせております。

即ち、智積院と東本願寺という、二つの反豊臣の寺院が建立されることよって、

《阿弥陀ライン》が断ち切られ、宗教的効力を失って、そして豊臣家は滅びました。

【この秘密を解明は内藤正敏氏でもあります】

その後、

2000年志村有弘氏の「京都魔界紀行」

2002年「京都恐るべき魔界地図」

2007年故火坂雅志氏の「魔界都市・京都の謎」

姉小路裕氏の「京都七不思議の真実」

日本の魔界地図や、日本の秘地・魔界と聖域等のその他多数書物が出てきております。

京都には、雅で楽しい京都には、

実は、呪詛(じゅそ)・怨念・祟りといった世界があります。

雅な表の顔とは違う裏腹に、血なまぐさい経緯を経て作られたものがあり、

その多くが、怨霊のうごめきと、その怨霊封じの姿であります。

名所旧跡の中に、怨霊を鎮めることを目的で造営されたものもあります。

実は、京都そのものが、時の天皇が怨霊封じのために、

風水を基に造都した、魔界都市だったからです。

(風水は次の京都シリーズの中で取上げ)

魔界都市京都の歴史を簡単に振り返ってみましょう。

まずは、京都が平安京として造営されるに至りました。

奈良時代から、平安時代にかけて、話始めたいと思います

平安京は、それまでの都が怨霊によってさいなまれたことによって、その怨霊から逃れ、襲

いかかる怨霊を封じこめる意図で造られた都でもありました。

その都は、長岡京(向日市・長岡京市)です。

この長岡京が、怨霊にさいなまれました。

そこで、時の天皇である桓武天皇が、たまらず都を、京都に移したわけであります。

なぜ怨霊にさいなまされたのか。

時の権力の座をめぐって、陥れたの、欺いたの、裏切ったの、殺しただの、といった、

権謀術数から生じた、人々の怨念が渦巻いたことによります。

怨念のもとは天皇の皇位争いであります。

「大化の改新」の時代まで遡り、聖徳太子が亡くなり、

蘇我氏の専横を、中大兄皇子と藤原鎌足が、645年蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼし、

天皇家を中心とする、政権を確立させました。

中大兄皇子がのちに即位して天智天皇となります。

次の皇太子となったのが、天智天皇の弟の大海人皇子(のちの天武天皇です)と、

すんなり皇位続けば、問題がなかったのですが、天智天皇が皇位を、弟にではなく、

我が子の大友皇子(のちの弘文天皇)に、譲ろうと考えるようになったため、

大海人皇子は、皇太子の地位を大友皇子に譲り、自ら頭を剃って出家。

天智天皇が崩御するや、態度を一変し、兵を集めて大友皇子と対決して、破りました。

これが「壬申の乱」です。大海人皇子が、天武天皇として即位しました。

ここからが、本論、以後、

41代持統天皇42文武43元明44元正45聖武46孝謙47淳仁48称徳

と続いた行くのですが、これらの天皇がすべて天武系です。

ところが、称徳天皇には、子がなく、後継者の準備もしていませんでした。

ここで天武系の流れは、ここで断たれます。

そこで、浮上してきたのが、天智系の白壁王(49代光仁天皇)で、

以後50桓武天皇51平城(へいぜい)52嵯峨53淳和(じゅんな)と、

天智系の天皇が続くこととなります。

皇位は、天智系と天武系の二統の間で、激しく争われました。

天智系の白壁王を担ぎ出したのは、藤原百川ら藤原氏一族です。

白壁王は即位して、光仁天皇となります。

この藤原氏の動きに対して、当然天武系の反発がありました。

そこで妥協策として、白壁王が即位する代わりに、

皇后に聖武天皇の第一皇女である井上内親王(いのえ)が入り、

二人の間に生まれた子を皇太子とし、ゆくゆくは、天皇にすることが提案されました。

このように、

光仁天皇は天智系といえ、あくまでも天武系の圧力による

今、現在で例えると、ワン・ポイント・リリーフに過ぎなかったのです。

そうして、二人の間には皇太子の資格を持つ他戸親王(おさべ)が生まれました。

このことで、天智系の皇統は、絶たれることになりましたが、ここで変事が起きます。

突如として、井上皇后と他戸皇子が、ともに廃后・廃太子されてしまいます。

(井上皇后が、我が子の他戸親王を一刻も早く天皇にしたいために、

夫である、光仁天皇を呪詛したというもの)

二人は、大和(奈良県)宇智郡に幽閉され775年4月に死んでしまうのです。

その後、光仁天皇と高野新笠(たかのにいがさ)との間に生まれた、

山部王(やまべのおう)が皇太子となり、ここで、天智系が一気に力を得て、

山部王が桓武天皇となり、以後天智系の天皇が続いていくわけです。

井上皇后・他戸皇子の二人は、何とも強引な濡れ衣ですよね。

二人が恨みを抱いて、死んでいったことは想像に難くありません。

その恨みの対象が、藤原百川らを中心とする、藤原一族だったことも、

容易に想像することができます。

このあと、異変が起こります。

二人が死んだのち、藤原百川が亡くなり、続いて藤原百川とともに、

光仁・桓武の擁立に奔走した、藤原良継も亡くなりました。

そればかりではありません。

都の奈良には、季節外れの雷鳴がとどろき、土砂混じりの豪雨が降る

といった天地異変が続きました。即位したばかりの桓武天皇は怯えました。

これは、井上皇后・他戸親王の怨霊の祟りではないということです。

「このまま天武系の都である平城京(奈良)にいたのでは、呪い殺されてしまう」と

そう考えた桓武天皇は、怨霊から逃れるために、意を決して遷都することにしました。

そ遷の都した地が、「長岡京」です。

 桓武天皇は、平城京から長岡京に遷都しましたが、

この長岡京も、造営当初から、皇位継承をめぐっての暗闘によって、

祟りに見舞われることになります。

新都の造営責任者は、藤原百川の甥の藤原種継が、

何者かによって暗殺されたのが幕開けです。

桓武天皇が、事件解明に乗り出すと、黒幕としてその名は、早良親王(さわら)。

早良親王は桓武天皇の弟です。

ここにも、先に書いた、天智天皇の後継者争いと、同じ構図が浮かび上がってきます。

桓武天皇は、弟の早良親王よりも、

実の子の安殿親王(あて)を後継者にする気持ちになっていました。

非業のうちに死んだ早良親王の祟りは、

桓武天皇の夫人藤原旅子(藤原百川の娘)が亡くなり、妃の一人多治比真宗が病死します。

翌年天皇の生母である、

高野衣笠も世を去り、桓武の皇后藤原乙牟漏(百川の姪)が薨去(こうきょ)、

妃の坂上又子が亡くなりました。

わずか、三年の間に、母と四人の妻を失ったのです。

これを祟りと云わずして何と言ったらいいんでしょうか?

さらに追い打ちをかけるように、安殿親王が病の床に伏しました。

親王は、三年間生死の境をさまよい

怨霊の呪力の及ばぬ土地、

怨霊の呪力を完璧に防御できる土地―すなわち現在の京都、すなわち平安京だったのです。

怨霊の恐怖から自らの身を守るため、桓武天皇が

呪的バリアをはりめぐらした『超霊場都市』―それが平安京の正体です。

正に、魔界・京都でありました。

 

次回京都シリーズ第四弾 風水の京都を取り上げます。

(さらに、京都シリーズ第一弾の中での神護寺の薬師如来像は、人を救う仏ではなく怨霊仏

であることを述べます)では、また。