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こんにちは 荒蒔です。

毎日の業務 お疲れ様です。

本日は、久しぶりに、

「京都シリーズ第五弾 信長暗殺の真実 今までにない発想・私見!」

について、述べたいと思います。息子に怒られそうですけど(笑)

Facebookの誕生日に、400人近くのいいね!に、驚きました。

ありがとうございます。

既に、

第一弾は『たどり着いた京都』を書こうと思った動機 

第二弾は、西国33カ所巡りと京都

第三弾は、魔界都市京都について 

第四弾は、魔界都市京都の風水について、掲載させていただきました。

今回は、第五弾として、信長暗殺の真相について、述べさせていただきます。

それでは、参りましょう。

京都シリーズ第五弾 信長暗殺の真実 今までにない発想・私見!

信長暗殺の真相について

「信長暗殺」の画像検索結果

信長暗殺は、源平政権交替論・源氏であることが、征夷大将軍に任ぜられる条件が、存在したといわれており、

信長を恨んでいた明智光秀は、なぜ、謀反を起こしたのかの謎を追っていきたいと思います。

源平政権交替論とは、ご存知の通り、平安時代末期に起こった、武士階級の代表として、清和源氏と桓武平氏とがあり、

源氏は、主として東国の軍政(地方統治権)に、平氏は主として西国にあります。

最初に、平清盛が太政大臣として覇権を握りました。

次いで、源氏の源頼朝が打倒し、鎌倉に幕府を開くます。

間もなく平氏である、執権北条氏の握ることとなりました。

その北条は、源氏の出である足利尊氏に滅ぼされ、足利氏は室町幕府を開きました。

次に、平氏の後裔(平氏詐称)であります。

越前の斯波氏(しばし)の織田信長〈元来は藤原氏〉であり、織田氏を継いだ、豊臣秀吉も平姓を名乗ったのです。

この豊臣政権を倒して、天下の覇権を確立したのは、源氏に末流と称する徳川家康であったのです。

(源平政権交代論を最大限利用、但し源氏詐称といわれる)

源平藤橘とは

「源平藤橘」の画像検索結果

源平藤橘とは、源氏(21の流派)・平氏(4流派)・藤原氏・橘氏の呼び名で、「四大姓」とされています。

源氏であることが、征夷大将軍に任ぜられる条件であるという、源氏将軍説が存在しました。

しかし、第13代征夷大将軍源頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、

清和源氏以外に、藤原氏や皇族も就任しております。

征夷大将軍≒源氏長者のような印象があるのは、第24代将軍足利義満以降、

すべて征夷大将軍は、

足利家〈足利家だけの累計代数15代(名)

第22代足利尊氏から第36代足利義昭まで〉と

徳川家〈徳川家だけの累計代数15代(名)第39代家康から最後の第51代征夷代将軍徳川慶喜まで〉

が独占しました。

征夷大将軍は、蝦夷討伐を目的とした官で、初期は征夷使、征東使と呼ばれていました。

武家の棟梁という立場での、将軍は頼朝以降で、そのため源氏が就くのが基本となりました。

戦国時代の第15代将軍足利義昭は、第12代義晴の子で、

第13代義輝の弟、仏門に入っていましたが、義輝暗殺事件で幽閉されます。

細川藤孝の手で脱出し、和田惟政、朝倉義正に頼り、将軍職を窺って第14代義栄と対立しました。

織田信長に、擁立された入京し将軍についたのです。

しかし権力は信長の手にあり行動を制限されたため、反織田連合を呼びかけて挙兵しました。

しかし、敗北して、幕府は、滅亡したのです。

室町幕府の官僚の奉公衆の伊勢氏など多くは、明智光秀に引き継がれ、実質消滅しました。

しかし、足利家の家職化した将軍を朝廷は解官しなかったのです。

明智光秀の信長暗殺の諸説は、50以上ほどあり、今回のテーマで、なぜ、取り上げたのか疑問ですよね。

諸説は

①怨恨説 ②野望説 ③朝廷黒幕説(光秀勤王家説) ④足利義昭黒幕説(光秀幕臣説)⑤秀吉黒幕説

⑥四国動乱説 ⑦光秀高齢説 ⑧家康謀殺計画から発展説(明智家のご子孫明智健三郎さん執筆「本能寺の変431年の真実」)

⑨突発的単独犯行説 ⑩その他多数

上記の②野望説の光秀は、ひそかに天下の野望を抱いていたのです。

根拠の一つが愛宕百韻(愛宕山蓮歌会)『ときは今あめが下知る五月かな』と。

光秀の本心は。「とき」→「土岐氏」(ときうじ)

「あめ」→「天」=「天下」 「下知る」→「命令」 土岐氏は美濃の豪族清和源氏です。

源頼光の子孫光信が、美濃国土岐郷になります。

足利氏の有力な武将として活躍、土岐頼康の時代に美濃・尾張・伊勢三国守護となる。明智氏-多治見氏も庶流であります。

「とき(源氏土岐氏の僕が)は今あめ(天下)が下知る(命令するからね!)五月かな」

と、心境を詠みました。

光秀の謀反は、征夷大将軍が桓武平氏から一人も出ていない歴史的背景から、

信長が天下を取り、初めての平氏の征夷大将軍となることが、朝廷(皇族・公家)として許されないのです。

光秀は、もともと朝廷のために働いていました。

しかし、全国に拡大し続ける織田信長が増長しており、

このままでは、天皇の上に立ってしまうと懸念した光秀が、信長の野望を阻止するために働いたのです。

「天皇・朝廷のため!!」にと考えておりました。

朝廷の皇族・公家の人たちが、背後で囁(ささや)いたのです。

「源氏の光秀はん、信長さんを討っておくんなはれ」

と、ヒソヒソと呟いたわけです。

織田家の最高権力であります。

織田信長・信忠親子を同時に討てる機会であり、それは、偶然にやってきたのでした。

これは、千載一隅のチャンスが来たから、襲ったのでないでしょうか。

京都近くには、細川幽細・細川忠興・筒井順慶たちがおりましたので、

まずは、行動を起こして巻き込もうと、そう考えたのでしょう。

天才司馬さんが、風土などは、あてにならない。

ある人物を理解しようとする場合、彼の出身地について、風俗的概念から帰納するほど滑稽的なことはありません。

たとえば、彼は鹿児島人である、だから西郷隆盛のごとく豪放磊落であると、などと言ってしまうのであります。

通俗的概念という、便利な大網をうって、人間をひと色にして、なんとなく納得したような気分になります。

しかしながら、翻っていうようですが、風土というものがやはり存在します。

歴史的にも、地理風俗的にもどうにもならずそれはあります。

そういうものは、個々の中には微量にしかなくても、その個々が地理的現在において数万集まり、

あるいは、歴史的連鎖において数十万集まると、明らかに他とは違う、においが群れてきます。

風土的気質・性格・思考法という意味にとっていただきたいです。

美濃の県民性について

最後に、美濃の県民性についてです。

美濃は、木曽川・長良川・揖斐川(いび)が流れ、肥沃な濃尾平野をつくりだしました。

しかし、そこに住む人々は、これらの川の氾濫に悩まされてきました。

この水害を防ぐために、考え出されたのが、村全体で堤防を囲った「輪中」であります。

同に「輪中」に住んでいる者どうしは互いに助け合い、結束したのです。

しかし、他の「輪中」はどうなってもよく、水で崩れたりするのを、ザマミロと喜んだといわれております。

つまり、「輪中根性」いう言葉には、親兄弟・一族だけを大事にするということではなく、〈きめつけはいけないけれど〉

その裏返しの、他人の不幸をも喜ぶという意味まで、込められているのです。

このようにして、形成された、美濃人のメンタリティ、当然ながら、個人の自主性を失わせます。

美濃人は、自分の考えで行動せず、常に、組織の意志に判断を委ねてしまう傾向があります。

そのために、日和見主義を感じたのです。

但し、美濃地方の人間は、社交性に富み、要領がいいといわれております。

まとめ

歴史と風土からできあがった、光秀の性格は「輪中根性」の日和見主義があったために、

突発的、組織的な天皇・朝廷からの意志に、判断をゆだねて信長暗殺を実行したと思われます。

※ご存じのように、日和見主義とは自分でモノを考えず、勝馬に乗ろうと、

じっと世の中の流れを眺めている人であります。

この日和見主義が増えたときに世の中が混乱に陥ります。

参考文献:県民性の祖父江孝男 日本人性格の宮城音弥 相手とうまくつきあう法他多数