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こんにちは 荒蒔です。

さぁ、京都ブログ第四弾です。

魔界都市京都(平安京)の風水について、述べたいと思います。

それでは、参りましょう。

この時代の風水で一番重要視されたのが、

北に山地、南に湖沼、東に河川 西に大道

がある土地がよいとされ、

玄武:北の守護神 青龍:東の守護神 朱雀:南の守護神 白虎:西の守護神

神がすべて、そろった場所を特に、『四神相応の地』と呼びました。

その地を、平安京に当てはめてみますと、

北は、丹波山から鞍馬山に続く北の山々から大文字山を下って船岡山まで伸びています。

南に、当時巨椋池(干拓され現在ナシ)という大きな湖が広がっていました。

(北からくる生気を蓄える平たい盆地が広がり、しかも鴨川と桂川

が合流して淀川となり、淀川は、気を蓄えつつゆっくりこれを流す、

京都の胃腸のようなもの)※南へ行くほど緩やかな傾斜。

東は、鴨川の清冽な流れ。気を逃がさない東山山系バリアになっています。

西には山陽・山陰道があり、嵐山がバリアとなっています。

これだけきれいに揃った土地も本当に珍しいものです。

【人体を流れる「気」と同様に大地にも「気」が流れている、

そのエネルギーを「大地の龍」この龍の流路を「龍脈」

エネルギーを地表に噴出させる場所を「龍穴」と呼びます。

龍穴の前方の広場を「明堂」

風水では、

龍脈・龍穴の他に、「砂(さ)」「水(すい)」「向(こう)」があり砂と水は、

龍穴エネルギーを雲散霧消させないよう、補完する役割を果たす地形のことを言います。

向とは、墓や家を建てるときの向きのことを言います。

東山と嵐山は砂そして巨椋池は龍の活動を補強する水に相当、桂川も水です。

「気」には、「陽気」「陰気」があり、

風がもたらす作用によって、

「陽気」は万物を育成し、「陰気」は本来の持つエネルギーが削られます。

気持ちがいい、気持ちが悪いと使われています。

※「山」「水」の調和が人間にとって最も良い気(正気)を与えると思います。

さらに、京都の平安京は、風水+陰陽道+密教で造られました。

前回のシリーズで、移転した長岡京は、

天地異変と不祥事続き縁起が、悪くわずか10年後に遷都

桓武天皇は、地相占い師総動員して、ベストの地層を持つ土地を、

選び出したのが平安京でした。

平安京と長岡京の違いは、風水的に見れば、龍脈(神聖ライン)から西側にずれています。

それまでの遷都に当たり活躍したのが渡来人の秦氏でした。

秦氏は、風水と治水・土木の技術をもたらし、

飛鳥から奈良までの帝都造りに力を尽くしました。

神聖ラインからはずして造られた、長岡京は秦氏系の地層術とは、別の占術に頼った京で、

平安京の一帯を領有していたのは、元々秦氏であったからです。

聖なるラインの戻った平安京は秦ラインの復活・巻き返しだったといえます。

特に聖徳太子と、手を組んで絹産業などの財を握った、

秦河勝(はたのかわかつ)は、呪術師でした。

※秦氏については次回以降の京都シリーズで取り上げます

呪術師グループには、修験道の開祖の役小角(えんのおずぬ)の流れの、

陰陽道の宗家ともなる賀茂家と、その後を継ぐ安倍家も含まれていたと思わます。

安倍家は、平安最大の魔術師とうたわれた、安倍晴明をだしており、東は、鴨川。

つまり賀茂の陰陽師に、守られたこの川こそは、平安京の霊的防御の主軸でした。

※鴨川のもとは洛中を南北に流れていたが、新都造営に当たりその流れをわざと、

東の洛外に移動させた。鴨川を北へ上がっていくと、京都の北の壁にぶつかります。

これが鞍馬山です。

「鞍馬寺」にある兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてん)は、

南を向いて左手をかざすという奇妙なポーズをとっているのが有名ですが、

これは、はるか平安京も望み、魔物の侵入を監視しているのであります。

そこから南へ下ると呪詛の神社水の神弁財天の「貴船神社」があります。

さらに南へ、雷神を祀り厄除けの王城鎮護の古社、

「上賀茂神社」があり、賀茂氏の本拠ともいわれ、

五穀豊穣の神を祀る「下鴨神社」が並びます。

平安京の一番北側にあって、東西に走る一条大路、

この北端の路の鴨川寄りに、安倍晴明が住んで魔を封じたという一条戻り橋があります。

西は秦氏系の地理風水占術師たちが守りを固めたことになります。

太秦は、秦氏の土地です。

財力の源だった絹をうず高く積み上げてあったので、

「うずまさ」と名がついたとも言われてております。

また、もう一つの説は、聖徳太子の太と秦河勝の秦から、一文字をとって太秦とした、

この平安京の地形は、大規模な龍穴を作り、大地のエネルギーを噴出させて、

その地の繁栄を約束させるものであります。

それだけではありません。平安京は別の霊的武装を施されていました。

魔性のものが、侵入してくるとされる鬼門の艮(うしとら)

〈北東〉に、第三の勢力として、最澄の比叡山延暦寺と、

亀卜を司る純国家的な吉田神道の本拠地、吉田神社(吉田山)が登場しました。

異界の出入り口である朱雀大路南端に、羅城門、

その東西に東寺《守護を任された空海は密教系の呪術を代表》

西寺〈守敏は秦系の密教学者〉を配し怨霊の侵入を封じるという

霊的空間を人工的に造りあげたのです。

次回は、「平安京の魔界封じ」を特集いいたします。お楽しみに。

最後に・・・

前回の宿題、

「神護寺の薬師如来像は、人を救済する仏が、なぜ怨霊仏になったのか」について、

美術史家の安藤住香(よしか)先生がご紹介した記事を取り上げます。

奈良時代、穢れを払うための形代(かたしろ)の人形をはじめとする、

呪詛に絡む出土品が平城京跡から多く出てきます。

その中に混じって眼や心臓に釘を打ちつけた人形は、

呪いを目的とする行為に間違いないといわれています。

また、一般的な習俗として、

丑の刻参りやわら人形がよく知られています。

呪詛も呪詛返しも、怨霊の働きによると考えられたので、

これを総称して怨霊仏と呼びます。

神護寺の薬師如来像の前に立って、

すさまじい相好に圧倒されないものはないであろうと。

片方の眉を吊り上げ、鼻筋は歪み、眼光は鋭い。

さらに、極限ともいえるような太い肉身、その肉身を巻締、痛めつけるような表のしわ。

生き苦しいほどの迫力であると云える。この不思議な薬師如来像について、その背後にある

精神を初めて、明らかにしたのが、

美術史家の中野玄三氏(京都大学文学部史学科卒)でした。

実際病気や死を怨霊が、とり憑くことによっておこると考える観念の上に立ち、

その怨霊を調伏するために、このような強力な薬師如来像を出現させたと説きました。

中野説は、それまで考えられたことのない、

怨霊にかかわる仏の存在を指摘した点で、画期的でした。

怨霊仏がもう二つあり、

大阪箕面市の西国33カ所観音巡礼札所二十三番勝尾寺(かつおうじ)の

薬師三尊像(何を鋭く見つめているのか)や、

京都の勝光寺に客仏〈他のお寺様から移って、

来られたお客様の仏様(像)〉として伝えられる、

聖観音立像は、腰をひねった女のポーズ小太りの肥満 豊かな髪の恐ろし気な顔があります。

紙面の都合上神願寺(じんがんじ)が神護寺になったとか?

怨霊仏の霊威の表現が仏体に重層表現、

天智・天武天皇の時代政敵を、落とし入れる巫術等は別の機会にします。